日本軍兵士 ☆☆☆☆☆


まずは事実の悲惨さに衝撃を受けた。そして単なる厳然たる事実を知らない、つまりは過去を反省しない社会に自分が生きているという現実に、暗澹たる気持ちになった。とはいえ、知ることからしか始まらないとすれば、必読の一冊。

岩手県は年次別の陸海軍の戦死者数を公表している唯一の県である(ただし月別の戦死者数は不明)。岩手県編『援護の記録』から、1944年1月1日以降の戦死者数のパーセンテージを割り出してみると87.6パーセントという数字が得られる。この数字を軍人・軍属の総戦没者数230万人に当てはめてみると、1944年1月1日以降の戦没者は約201万人になる。民間人の戦没者数約80万人の大部分は選曲の推移をみれば絶望的抗戦期のものである。これを加算すると1944年以降の軍人・軍属、一般民間人の戦没者数は281万人であり、全戦没者のなかで1944年以以降の戦没者が締める割合は実に91パーセントに達する。日本政府、軍部、そして昭和天皇を中心にした宮中グループの戦争終結決意が遅れたため、このような悲劇がもたらされたのである。
ちなみに、アメリカの著名な日本史研究者であるジョン・ダワーによれば、アジア・太平洋戦争での米軍の善戦死者数は10万997人、このうち1944年7月以降の戦死者数は少なくとも5万3349人であり、絶望的抗戦期の戦死者数が全戦死者に占める割合は少なくとも53パーセントである (War without Mercy, Race and Power in the Pacific War)。
日本では基本的な数値さえ把握できないのに対し、アメリカでは月別年別の戦死者数がわかることに驚きを感じる。そして、同書の詳細は注を見てみると、陸海軍省の医務・統計関係の部局が、そうしたデータを作成・公開している。日米間の格差は、政府の責任で果たすべき戦後処理の問題にまで及んでいる。
(同書25-26頁)

後段とか、何この既視感。。日本って根本的になーんにも変わってないんだなって思うよね。

純文学とは何か ☆☆☆

小谷野先生の文学に関する本は読む価値がある。いろいろ気づきあり。
純文学と通俗小説が対なわけだが。

ちなみに、現代において百万ぶ売れた小説でも、その数は全人口の一パーセントに過ぎず、仮に一冊を三人が読んだとしても三パーセントである。これに対して、テレビで二十パーセントの視聴率があれば、二千万人が観ていることになる。つまり、「大衆文学」と言っても、本当の大衆は本なんか読まないのである。つまり「大衆・通俗」といっても、それはこの一パーセントの中の話でしかない。(同書40頁)

歴史小説に関して。

だが、「文学」の世界では、こういう「調査・研究」が、不思議にも軽蔑されることがある。佐木隆三の『復讐するは我にあり』(1975)は、ある殺人犯の死刑囚について克明に調べて書かれ、直木賞をとった名作だが、蔭で「調べて書いただけじゃねえか」と悪口も言われたという。これは嫉妬も混じっているだろうが、「調べて書いた小説」は軽んじられているのである。
ここには、事実を調べて書いたなら、それは小説ではあるまい、という考え方が当然あるだろう。「調べて書く」の反対側にあるのは、「体験して書く」私小説や、「想像力で書く」小説があることになる。(同書78-9頁)

私も常々疑問に思っていること。

ところで、先の「文学は男子一生の大業」にしても、サルトルの「飢えた子供の前で文学は有効か?」にしても、なぜ「文学」だけがそのような問いを発することになっているのだろう。ここに、美術や音楽を代入してもいいはずだが、美術家や音楽家がそのような苦悩を表白することはあまりない。あるいは理系の学問でも、フェルマーの定理を証明したからといって、それが人類に裨益するわけではない。(中略)
しかし、こういった悩みや迷いは、多分に売れない純文学の作家から出るのもので、娯楽小説作家はあまりこういうことを言わない。つまり売れるからである。二葉亭も『浮雲』やロシヤ文学の翻訳が大した金になるわけでもないために「男子一生の大業にあらず」と言ったので、売れた尾崎紅葉はそんなことは言わなかった。
(同書199−200頁)

トラクターの世界史 ☆☆

すみません、もちろん歴史は面白いんだけど、なんか私が読みたかった本ではなかった。
牛馬と機械(トラクター)の対比が、農民の間で自然に行われていたというのは、ギクっとするエピソード。そこから遠く離れて今、みたいな。
あと、本書で言及されている(114頁)マリーナ・レヴィツカ『おっぱいとトラクター』という小説は読んでみたいと思った。

宗教国家アメリカのふしぎな論理 ☆☆☆☆

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)の著者による手軽に読める新書。

アメリカ型政教分離とは何か。

むしろ、政教分離を定めたアメリカという国家の本当の目的は、宗教が宗教として栄えることでした。(中略)
政教分離」というと、日本では政治から宗教性をだっsyくして、非宗教的な社会を作ることであるかのように解釈されます。しかしアメリカではまさにその反対です。政教分離は、むしろ宗教的熱情を確保するために定められたのです。つまり、各人が自由に、自分の信ずる宗教を実践するための制度として政教分離があるのです。(同書77-8頁)

・富と平等の結びつき

アメリカの論理では、「神の前の平等」と「富と成功」は矛盾するものではありません。むしろ政教分離によって、誰もが自由に信仰を実践できる。そこでは篤い信仰をもつ人間は神の祝福を受けるし、「十分な暮らし」ができていれば、それは神の祝福を受けている証であると考えられるのです。(同書82頁)

・チャーチとセクト

アメリカの反知性主義に深く関わるものとして、チャーチ型とセクト型という二つの集団概念があります。
簡単に言うと、「チャーチ」とは社会全体を覆っているエスタブリッシュメントのグループです。人はそのなかに生まれ落ちて、特に所属感もなく、自然とそのメンバーになっていきます。それに対して「セクト」は、エスタブリッシュメントの宗教団体に対抗して、より純粋なグループを作ろうとする改革運動の担い手です。だからセクトは、既成の権力への根深い疑念と反発をもっています。この権力への疑念が、反知性主義に不断に養分を供給し続ける源泉なのです。(同書82-3頁)

つまり反知性主義とは、「反・知性」主義というより「反・知性主義」なのです。本来的な意味においては知性そのものへの反発ではなく、知性と権力との固定的な結びつきに対する反発なのです。(同書91-2頁)

光明皇后 ☆☆

著者の光明皇后愛が伝わる一冊。しかし、それだけに「と、わたくしは思う」という思い入れ表現が多すぎて、どの程度まゆに唾つけなければならないのか不安になる。限られた資料を読み込む古代史の研究は大変だ。

宗教に関心がなければいけないのか ☆

久しぶりに小谷野先生の本を読んだ年末年始。
うーん。文学以外の話はもう読まなくてもいいな、というのが感想。

斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史 ☆☆☆

斎王をネタにしたニッチ日本史本。著者が、日本史が本当に好きでたまらないことが伝わってくる書きぶり。
源氏物語の話がいろんな箇所で出てくる。紫式部がどんな時事ネタ、実在の人物をモデルにしながら書いているのか、知れたのは収穫。